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関羽
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関 羽(かん う、? - 219年)は、中国後漢末期に劉備に仕えた武将。字は雲長。元の字は長生。司隷・河東郡解(現在の山西省運城市常平郷常平村)の人。封号は漢寿亭侯。諡は歴代王朝から多数贈られたため爵諡を参照のこと。見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため「美髯公」などとも呼ばれる。子は関平・関興。その武勇、曹操が義理堅いと評した事から、後世の人間が神格化し関帝(関聖帝君・関帝聖君)とし、47人目の神とした。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。そろばんを発明したという伝説まである。『三国志演義』では、「雲長又は関雲長或いは関公、関某と呼ばれ、一貫して諱を名指しされていない」、「大活躍する場面が壮麗に描かれている」など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている。経歴
忠節と義理堅さ
彼の出身地は中国最大の塩湖である「解池」の近くにあり、その出身地から塩の密売に関っていたといわれている。また、暴利をむさぼる塩商人を殺したともいわれている。官吏に追われて幽州に逃げ、おそらく姓名を変えて関羽と名乗った。その後、劉備・張飛と出会い、終生劉備に忠誠を尽くした。劉備が故郷で挙兵したとき、張飛とともに劉備の護衛官となった。劉備は関羽・張飛に兄弟のように恩愛をかけた。地元・山西省の研究では、関羽は劉備より年上ながら、劉備を兄として仕えたといわれている。曹操が呂布を破った後、劉備が曹操を裏切って敗れ袁紹の元に逃げると、曹操の捕虜になった。曹操は関羽を偏将軍に任命し、非常に手厚く礼遇した。だが、関羽は功績を立てて曹操に恩返しをしてから、劉備の下へ戻ろうと考えていた。官渡の戦いでは、関羽は敵将の顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃し、大軍の真っ只中で顔良を刺し殺し、顔良の首を持ち帰った。この時、袁紹軍の諸将で相手になれる者はいなかったという。曹操は即刻上表して、漢寿亭侯に封じた。顔良を討ち取るという功を立てた関羽は必ずや劉備のもとに戻ると曹操は考え、関羽に重い恩賞を与えた。関羽はこれらの賜り物に封印をして、曹操に手紙を捧げて別れを告げ、袁紹の下にいる劉備の下へ去った。曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して、彼を追ってはならないと言い聞かせた。荊州を預かる
赤壁の戦いの後、劉備が益州に入ると、関羽は荊州の守備を任され、曹操・孫権に睨みを効かせていた。しかし荊州に駐屯していた曹操配下の楽進が国境を侵犯し、苦戦したようである。彼の荊州の統治ぶりは、呉志『陸遜伝』によれば、恩得と威信がよく行き渡っていたようである。しかし関羽は部下には優しいが、同格の士大夫を見下すという悪い癖があり、このことが後に彼自身の災いを招くこととなる(関羽は庶人から成り上がっており、もともと士大夫より低い身分だった。反対に張飛は部下には苛酷だが、士大夫は尊敬するという性格であった)。215年に、魯粛・呂蒙らが長沙・桂陽・零陵の三郡を襲撃すると、関羽は三万の兵を率いて益陽に布陣。劉備も大軍を率いて関羽の助勢に駆けつけ、一時は劉・孫同盟の崩壊の危機に至った。だが、関羽と通じた長沙の安成、攸、茶陵の三県、揚州廬陵の永新県の官吏らが桂陽の陰山城で謀反を起こし、続けて中郎将の袁龍・安成の長呉?が反乱を起こしたこと、さらにこの年、曹操が大軍を率いて漢中の張魯を攻撃したこと、これらが両陣営に和平の機運をもたらし、関羽と魯粛の対談が実現した。結果、湘水を境界線とし、長沙・江夏・桂陽は孫権領に、南郡・武陵、そして一度は奪われた零陵が劉備領となった。樊城の戦い
219年、劉備が漢中王を称し、関羽は前将軍・仮節に任じられた。この年、関羽は水陸両軍を率い、息子の関平、都督の趙累らとともに樊城を守る曹仁を攻撃した。曹仁の援軍として、七軍を率いた于禁が駆けつけるが、折からの悪天候により大洪水が起こり、七軍は水没。関羽は船団を率いて攻撃をかけ、于禁を降伏させ、?徳を斬った。また、このとき荊州刺史・胡修、南郷太守・傅方らが関羽に降っている。関羽は樊城を完全に包囲し、別将を派遣して襄陽までも包囲した。さらに関羽は方々に印綬をばら撒き、曹操領内の群盗などが一斉に蜂起。丞相掾・魏諷までもが関羽に通じて反逆を起こし、中原は震動。曹操は狼狽して遷都まで考えたほどであった。また、曹操は徐晃を派遣して曹仁を救援させた。だがそれより前、孫権から関羽の娘に、彼の息子との婚姻の申し入れがあったとき、関羽はこれを断り(「虎の娘を犬の子にはやらん」との発言が『三国志演義』等に見られるが、正史には見られない。民間伝説では関銀屏という名前がある )、孫権を怒らせたことがあった。 曹操の部下の司馬懿と蒋済は関羽と孫権の仲が悪くなったことを見計らって同盟を結ぶ事を提案し、曹操は孫権と同盟を結んだ。これで逆に曹・孫両軍に挟撃されてしまう事になる。曹操の部下の董昭は曹操に「樊城の将兵の士気を高めるためと、関羽の曹操軍への戦意を喪失させるために、孫権が曹操と同盟を結び関羽の背後を攻めることを、樊城の曹操軍と関羽に漏らすべきです」と提案した。曹操はこの提案に従い、徐晃に樊城の曹操軍と関羽軍に孫権参戦の情報を伝えさせた。この情報を聞いた樊城の曹操軍の士気は大いに上がった。孫権は呂蒙・陸遜らに南郡を攻めさせ、関羽に不満を持っていた麋芳と士仁に誘いをかけ寝返らせ、関羽の本拠地の江陵・公安を奪い、その後も荊州の劉備領を攻略した。一方、関羽は徐晃に攻撃され、敗れたので、樊城の包囲を解いた。その後、孫権は関羽軍の輜重を奪ったが、それを聞いた関羽は襄陽の包囲も解き、撤退した。呂蒙は関羽や関羽の部下の妻子たちを捕虜にして厚遇したので、関羽の部下達は敵対心を失って、関羽の軍は四散し、大半の将兵が孫権に降伏した。そして、ついに臨沮で関羽と関平は退路を断たれ、潘璋の部下の馬忠に捕らえられ、斬首された。王隠『蜀記』によれば孫権は関羽を部下として使いたいと考えたところ、側近に「曹操は彼を殺さなかった為に遷都まで考える事態となった」と進言され、諦めたという記述が残る。だが裴松之は、「『呉書』の記述から、関羽は臨沮で即座に斬殺されており、おそらく江陵に居たであろう孫権に同意を求める事は不可能だろう」と推測している。また、諸葛瑾伝注によれば、裴松之は「孫権は関羽を討伐した事により、後漢王室の為に尽くすという大義名分は失われた」と評している。関羽の死後
関羽の首は、孫権の使者によって曹操のもとへ送られ、曹操は諸侯の礼をもって彼を葬った。222年、関羽を殺された劉備は怒りのあまり呉に対して夷陵の戦いを起こしたが、大敗を喫した。景耀3年(260年)、蜀漢の劉禅より壮穆侯の爵諡を送られた。263年に鍾会らにより蜀が滅んだ際、?徳の子・?会が関羽の一族を皆殺しにした、と東晋の王隠著『蜀記』に記されている。現在、関羽62代目の子孫を名乗る関新剛が中国に存在するが、関羽の子孫かどうか実際の所は不明である。三国志演義では
『三国志演義』では、身の丈9尺、2尺の髭、紅顔で重さ82斤の青龍偃月刀(冷?鋸:れいえんきょ)と呼ばれる大薙刀を持ち、赤兎馬に跨っている。主人公的存在だけあって、史実に比べ、活躍は非常に華々しいものとなっており、講談や元曲・京劇(戯曲)などでの創作が、積極的に取り入れられていると思われる。たとえば、
・董卓配下の猛将華雄を、曹操に勧められた酒が冷めないうちに斬った話
・曹操の元を去るとき、曹操軍の検問に見咎められて、6人の将軍を斬り殺して突破した話
・孫権軍に処刑されたあと、呂蒙を祟り殺した話
など、全て創作である。なお、名馬・赤兎については呂布の死後曹操が持っており、降伏した関羽の心を得るべく譲ったことになっている。曹操からの贈り物は二婦人への贈り物を含め全て封印した関羽であるが、「この馬は千里を駆けると知っております。今幸いにして之を得たなら、若し兄の行方が知れた時、一日にして見えることが出来ましょうぞ」として唯一これを受け取り、以降は関羽の愛馬として活躍する。また、養子として関平が、次男として関興、三男として関索が出てくる。正史によれば、関平は実子。関興は諸葛亮にその才能を評価されていたものの二十数歳で亡くなっている。関索に至っては正史やその註にも一切記載が無く、後世に作られた伝承「花関索伝」の登場人物を流用したもので、実在しない人物だと考えられる。死後に呂蒙を呪い殺すとされているが、義理堅い関羽の印象にそぐわず、また非現実的であることなどから近年では削除される事もある。その場面によると孫権は関羽を処刑した後、祝宴を開いて呂蒙を第一の功労者として上座に座らせ、呂蒙に親しく杯を渡す。呂蒙は恭しく杯を受け取るが、突然その杯を地面に叩きつけるなり孫権の胸倉を掴んで押し倒し「我こそは関羽なるぞ」と大喝。祝宴に列席していた一同が顔色を変えて平伏すると呂蒙はばったりと倒れ、血を吐いて死ぬことになる。関羽の魂が乗り移ったように描かれている。また、関羽が斬首された後その霊が玉泉山の普浄という僧の前に、同じくして死んだ関平と周倉、それに家臣の霊とともに現れ、呉や呂蒙に対する恨みを綴るが普浄の説得により成仏する、という話もある。普浄という人物は話によっては、関羽を以前助けた人物だとも、関羽が死んでから百年後にいた人物だとも言われており、存在した年代がはっきりしておらず、フィクションなのか実在したのかさえもわからない。
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